昭和50年08月30日 朝の御理解



 御理解 第28節
 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」

 昨夜の御祈念に、あの、坂本さん達(      )具合が悪くて、しばらくご無礼しておったけれども、職人さんの中に自動車を買いたいと、まだ若いです、二十歳ぐらいな感じですけれども、それが、その坂本さん、主人がいつも合楽にお参りをさせて頂いておるという神様の話を時々するんです、聞いておる、もう、その自動車が買いとうて買いとうてたまらない、もういわゆる、金策をしてからあと10万円金が足りない、その10万円あれば買われるごたる。
 それでどうでも、その合楽の金光様に連れて参ってくれというので、まぁ自分の丁度おかげを頂いて、大分長い間休んでおったけれども、おかげを頂いてから、ならお礼参拝をかねて連れて、まぁその人に言うなら、牛に引かれて善光寺参りのような感じで参ってお礼参拝の出てきたんです。そしてまた本人も、まぁ参ってよかったという訳です、その時私は、あと10万円のお金が足りなかった事がおかげだねと私は言った、ね。10万円足りとったらあんたが、合楽までつれて参ってくれなんていやしなかった。
 10万円足りなかった、まぁどんなに金策してもできなかったおかげで、どうでもこうでも連れて参ってくれとこういう事になったんです。足りなかったことがおかげです、しかも、おかげはそれだけじゃない、いうなら今度はお願いをさせてもろうて、10万円の今度はお繰り合わせを頂いたとするか、そこにはね、神様に許されてこの自動車を購入したということになる、これがすばらしいです。
 許されて買うた、自分のいうならば気の赴くままに、自分の思う通りの事をしたというのは我が入る、その10万円足りなかったおかげで、どうしてる事が出来ん。まぁ勿論、だからお繰り合わせを頂かにゃならん、今晩から一つしっかりお願いをするからね、その10万円のお繰り合わせを願う、お繰り合わせを頂いたら、神様に許されて自動車を買うということになるから、後が素晴らしいよと、というた事でした。
 それから、高野さん達夫婦が参ってきたのは、先日から、たまたまお参りした時に、合楽の信心が一変すると、これからは、まぁ言うならば、神様が金庫を開けておって下さるようなもの、だから頂くという気になりゃ、ね、おかげが頂かれると言う様な御理解をずうっと何日か続いて頂きます。一番初めにその御理解を頂いた時に、たまたま参ってきておる。高野さんと言う方私は知りませんけどね、お野菜とか、果物、食料品のようなもの商っておられる、1、2年前ばっかり、もう、この人は病的な不眠症です。
 もうノイローゼになる一歩手前と言う様なな時に、たまたま私が日田になにかと参りました時に、親先生がみえとるからというので、皆集まってお話を聞いて下さったことがあった。その晩を境に眠れるようになったと、以来、熱心とまではないけれども、信心のなかった主人が一緒にお参りをしてくれるようになり、もう万事にお繰り合わせを頂いた。それが非常にそのおかげの頂き具合というものが、なんというんでしょうかね、もう本当におかげを受ける。
 どういうところにそのおかげの頂けれる元があるだろうかと思うぐらいにおかげを受けるです。先日から、その日たまたまお参りした時に、その御理解を頂いた時にです、もう最近商売替えしようかと思うぐらい、近所にスーパーマーケットのようなのがでけて、もう、それからというものは大変売上が減ってきた。それからそのことを、まぁ商売変へをしたいようなお話のお届けがありましたけれども、まぁ続けるように神様のおかげを受けるということはね、また別だ。
 近所にそういう大きな店がでけたから、商いがないと思うとるから商いがないのである、そんなことはないです、とまぁ頂いたけれども、やっぱり、商いがあんまりなかった。ところが先生、先日からの御理解を頂いてこの方、あの日が丁度翌日から近所にやっぱり同じスーパーが一緒に開店する日だったそうですね。もうこれはいよいよお父さん、もう、家はだめになったばいって言いよったところが、朝から売れること、売れること、それこそ、てんてこまいするように売れたち。
 本当に昨日お参りさせて頂いて、親先生があげんいいなさったが、あれはほんなこつですばいと言うて、さぁそして今日までその売上が落ちずに続いておるというんです。というのが昨日のお参りの高野さん達夫婦が参ってきた、その事で参ってきたんです。ですからもう信心は理屈じゃないですね、はぁ今日は雨ん降るけんで、お客さんがすくなかろうと思うから少ないんです。神様のおかげを頂くいわゆる信心はね、観念的なものでは観念に縛られてしまう、だからある意味で信心とは観念を捨てる稽古だ。
 ところがね、生まれつき私は、その観念を捨てやすい人と、いつまでもその観念に縛られて理屈っぽく行く人とあるわけですね、どちらが良いとは言われん、言われませんけれども、おかげをやはり観念をすぐストップ捨てていけれる人がおかげを頂きます。例えば、糖尿病なら糖尿病と言う、甘いものはいかん、辛いものはいかんと医学ではいうけれども、神様のおかげを頂けば何も頂いても。
 頂くという心で頂けば、命の為に頂くのだという頂き方をすれば、障りはせんと頂いてから、はぁ本当にそうかなと思うて頂いたら障りはしません、けれども医者はいうし、まぁ常識的に糖尿病は甘いものはいけない辛いものはいけないとふうになっとるから、まぁ食事療法をするのがほんなこつといったような考え方でお願いをしたっておかげが、やはり、遅々としておかげが進みません、もう観念に縛られるから。
 それは昨日、毎日直方の行本さんがお参りになる文房具の卸屋さんです、親代々からの信心だけれども、ご自分は信心、それでも高橋正男先生の所に2年間も修行に行ったと言う位ですから、親の熱心さが分かります。それでもやはり自分の立ち直りが出来なかった。ここであの、御神米のこの包装紙のこれをお供えなさっておる、神様に。それはもうその奥さんがお参りをして来る様になって、もう大分なりましょうかね、十、四、五年になられましょう、主人が熱心に参って来る様になったのはついここ一、二ヶ月。
 あちらの方へ、直方地区の方で、ここの共励会が毎月ありよる、それから、信心が生き生きと、もう毎日どんなに忙しかっても、夜中にでも参ってきます、直方からですね、あの一山を超えて参ってくる。そしてもう本当に、その信心のね有り難さと言うか、人のことなら、人のことをお取次ぎ願うことがとても有り難いと言う様な感じです。先日も自分の父親のお友達で、市会議員までもなさったという方。だからお父さんのお友達というから相当年でしょうね。
 肝臓癌で福岡の病院に入院された、それを聞かれてすぐ、あのお願いにみえる、それから御神米をもってあちらに行かれても大変喜ばれた。ところがねそれを境にどう様態が変わってきた。周囲の者はもう恐らく、まぁ死んで帰ってきなさるじゃろうというほどしに思うておった、また地方の病院ではそういわれておった病院が手術の為に医大の、医大じゃない、福岡の大きな病院に入らせて頂いたその時点からお取次ぎを頂いて一生懸命行本さんがお願いをなさった、御神米を持っていったら大変喜ばれた。
 お父さんが大変熱心な信心をしておられることは知っておられるし、そのその方は信心はないけれども、それこそ大変喜ばれた、友達のいわゆる息子の親切に、もう本当に心から、まぁ喜ばれたという事です。そこで、昨日、御礼に来て、おかげで手術せんな、退院になるというおかげになった。それは本当にたまがった、そげんまじゃなかろうと思いよった。ところが、まぁその肝臓癌がおかげを頂いて、手術もしないなりに帰ってくるというような、嘘のようなお話でありますけれども、おかげを頂いた。
 これは昨日、いつも、熊本の富永先生が29日が月のお礼の日として、いつもお参りになる。丁度一年前に国鉄に出ておる方で、信心を始めたばっかりの人が自動車に乗せてお参りをさせて頂く。その時に私はこれからはね、この29日という日は親先生のお供をして合楽参拝、いわゆるあんたとしては月参り、親先生としてはお礼参りの、あんた車でおかげを頂く御用をこれから頂くようにしなさい、もうそれから毎月29日にはお繰り合わせを願うてお参りをしてくる。最近はお知らせを頂くようになった。
 しかもなんともいえん、そのそれこそ、日奈久関係の方達の、まぁ信心はいっぷ違ってます、合楽の信心を元にしとりますけれども、素晴らしく行儀がいい、みんな。うんそれはもうお届けの内容でも聞いとって素晴らしいお届け聞き取るだけでおかげ頂くじゃろうというぐらい素晴らしいお届けをされる。ところが昨日、こちらへみえてから、親先生と一緒にご祈念をしよった、ところが御心眼を頂いてね。
 自分が両方の手にあめ玉を、それを、もうそれがもう柔くなって、ベタベタなっとるとをあっち握り、こっち握りしとるところを頂いた。昨日は、敬親会でしたから、ちょうど、いつも敬親会に参加されて、私がお年よりの、お年寄りばっかりの会ですから、そのお年寄りの方達ばっかりに対するお話を頂き、また、テープに、カセットにちゃんと入れて、そして、いつも帰られる。
 私、昨日、敬親会の事のお届けを神様にさせて頂きよりましたら、私のあの、2番めの孫、まぁようやく歩きならったばっかりですけれども、それに、私が、西岡先生が今、毎日御用をされておられる、今日は、私の毎朝の御理解が毎日収録されております。それを、もう二十何年間毎朝の御理解が残されておる訳です。テープでも残る、書いたものでも残っておるわけ。そのあの、御理解感話集をね、私がその、恵城といいますが、その子供を恵城にやりよる、そしてやりながら、おちょうだいをしなさい。
 ところが、恵城としてはそげなんものはいらん訳ですね、そして、私がこの本はね、これを読めばお徳が頂かれる本だからこれを頂きなさいとこういう訳なんです。ところが、自分はお徳であろう、あるとか、教典とか、感話とかいうたって分からん訳ですけれども、まあ、おじいさんがおちょうだいをしなさいといいよるから、まあ、しょうこと無しにおちょうだいをして頂いておるというお知らせである。
 だから今日の敬親会はまあ、こう言う様な事からお話をさせて頂くんだなと私は思うております。どういう事だと思いますか。ここで皆さんがね、例えばここ2、3日のように、この御理解さえ頂き抜いていくならば、お徳も頂けれる、おかげも受けられるという、いわばお話をしております。けれどもお徳というたところでです分からない、形の上では。それよりもやはり、おかげのほうが良いのである。その恵城に渡すその教典感話でもそうです。本人にとっては、それは無用の長物のようなものだ。
 そしておもちゃであるとか、ならお菓子であるとかならばニコニコとして御頂だいをして頂くだろうけれども、そういう難しい本を貰っても子供としては役にもたたんし、言われるからおちょうだいをして頂いておるだけのことだということです。お互いの中に本当に反省しなければいけません、その、なら熊本の、ご信者さんもそうです。一年余りの信心になり、本当に、まぁ一年余りでよくもここまで育ったなと思うぐらいに信心が育ったように見える、お届けを聞いておってもです。
 それこそ、日奈久教会のことから親先生のことから、それから合楽のいうなら、合楽示現活動に参画させて頂く事の祈りから願いから、それはもう実に行き届いたお願いであり、お取次ぎ頂かにゃならんので、ね、けれどもね、それは教えられたからそういうておるのでありますけれども、実際は自分が御心眼頂かれたように、丁度それはあんたの信心がまだあめ玉ぐらいな、を必要とするところではなかろうか。
 しかもそのあめ玉が手にひっついて、あっちひっつき、こっちひっつきしておるような状態じゃないだろうかねというて話したことでした。敬親会でお話をしたように、その、これを頂いていけば、こういう信心をさせて頂けば、お徳が受けられる、こういう信心をさせて頂けばめぐりのお取り払いも頂いてです、病気災難は根の切れるまでのおかげが頂かれると例えば頂きましてもです、病気災難の根が切れると言った様な事は願いではあるけれども目に見えない。
 そして、信心をさせて頂いておるのに、どうしてこういうことが続くだろうかと言う様な事も、今日は私は皆さん、昨日、私が一日お取次ぎさせて頂いた中の、まぁ3、4人の方の事を聞いて頂いたんですけれども、神様のおかげと言うのは分からない、私も分からない、けれども、まぁ分かるのはです、おかげを受ける人は非常に純粋だ、素直だ、常識、常識なんかと言う様なものをストッと捨ててしもうて、それと非常識と思われるぐらいな超常識的な心が心の中で動くんです。
 いうならば、観念を捨てやすい、そういう人が、やはりおかげを頂くということ。また、お取次ぎを頂いて、いうならば行本さんの、いうなら、お父さんの友人であるところのおじいさんの、いわば肝臓癌が、手術をしないなりにおかげを頂いて、退院のおかげと言う様なところまでおかげを頂いたとか、又は信心させて頂いとる内に、昨日、私が坂本さんところの職人さんに申しておりますように、十万円足りなかった、自動車を買うのに、それがおかげだと私が分からせたこと。
 しかも、もっとおかげなことは、その十万円のお繰り合わせを今度は頂くだろう、私がお願いをするから、そして、自動車が買えるだろう、そしたらです、そこからお許しを頂いた車として神様から頂いた車として頂く事になるのですから、もっと素晴らしいおかげだというふうに分からせて、分かって頂くおかげ、観念をはずして頂くおかげ。もう、それこそ、おかげを頂いて熱心にお参りをしてきておる方があります、ここ2、3日、本当におかげを頂いた。
 ところがこの頃、いうならば、その普通で言うなら不が悪いと言った様な事が続く、そこで、信心に少し迷いが起きてきた、そして、毎日お参りをしよりますけれども、どうしても毎日お参りをすると畑を荒らさんならん。そして人からも笑われる、笑われては神様の顔に泥を塗るようなことだから、内の事を中心にして、そして、まぁ都合のついた時だけお参りをしようかと思いよりますがということであった。
 私はもう、それはあんたがよかごつたいと言いたかったけれども、そういうたら本当にそうなってしまうから、そうだな、そこんところが今が一番大事な時じゃなかろうかねと、いうて、まぁいろいろとお話をさせて頂いたんですけれども、ね、その辺から、私は井戸が清水になっていくのじゃないかと思うんですね、その2年、3年は、それこそ、置いたものを取るようにおかげを頂いて、教えの有り難さに、もう、それこそ、もう、有り難うして、有り難うしてと言う日々の信心がでけておった。
 有り難うなってきたから神様がいよいよどのぐらい有り難くなったか、本当に今度は試して見られる、神様が試してみられる側に立たれた、そして、ちょいとついたり引いたり押されたら、もう、信心が、信心しよたっちゃこげなこつが続くならと言った様な心が起こってきた、これは誰しもが、やはり、一応は通らなければならない、一つの過程であります。
 だからそういうところをです、今日の御理解でいうと、八、九分で止めればいつまでたっても井戸の水がにごっておるようなもの、真から根からのおかげにならない、真からのおかげになってこなければ、それはどういうことかというと、心の状態がです、いよいよ、いうならば観念の、観念的、言うならば融通のような信心とでも申しましょうか、理屈で分かった信心とでも申しましょうか、そういう信心からです、いよいよ私共の心の中に、いうならば、超常識的な心の状態が頂けてくるようになる。
 そこから頂くおかげがです、私はいよいよ、井戸は清水になるまでのおかげであると同時に、そこから、そういうところから一心の信心というものがなさらなければならない。病気災難は根の切れるまで、一心にまめで繁盛するよう、元気な心で信心をせよと、ここんところが、私は皆さんだいたい、今、私が申しました程度の事は分かってもおられる、知ってもおられる、同時に今合楽がいうならば、勢を揃えて合楽に御神縁を頂いておる者ぜんぶがです、おかげを頂かせてもらえれる。
 いうならまめで繁盛するような、おかげが頂けれるところまで、今日の合楽はきておる、それでそれを、本気で頂かせてもらおうという信心が一心で、私は縋って行くと言う事になって来るとこう思うんです。まぁ今日はどれというて、芯のないようなお話でした、また昨日、私がお取次ぎをさせて頂いた、いろいろなお取次ぎの、一つの様相というものを聞いてもらいました。
 そういう様相が皆さんの信心の中にも、そういう様相があるのです。だから、そういう信心体験をふんまえての事でございますから。よしそこにいうなら、普通でいうなら不が悪いとか、ね、信心しよってもどうしてと言う事があっても、そこのところを、ひと気張りさせて頂くことこそが本当の信心であり、いうならば両方にもっておるこのあめが引っ付いて、おるように、これを綺麗に取払うて、そしてその心からです。
 徳を頂く事に御頂だいが出来るような信心を頂くことになってくるのです。お話を頂きながら、そういう信心をすればお徳が頂けれるということが分かっておってもです。そのお徳と言うても、形に見えるものではない、それよりか目の前にいうならば、思うておる、人間のいろいろな願いごと、欲望と言うものがまず満たされたほうが、良いぐらいな信心でいつまでも育てなかったら、信心も困りものです。
 神様がおかげを下さろうとするその働きに私どもがいよいよね、信心の成長を願わせてもろうて、様々な今申しましたようなお話の中を、いわば分けて通ったと言うかふんまえて、これからの信心がいよいよ、まめで病気災難は根の切れるまで、一心でまめで繁盛するよう元気な心で信心をせよという、そういう信心にならせて頂かなければならない時にあると言う事を一つ分かってもらいたいと思います。
   どうぞ。